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第38話  — 田中先生 — 【part2】

※勤労動員

私が高校2年生になると、太平洋戦争は一層烈しくなり、私たちは富山の軍需工場に勤労奉仕のため動員された。私たちは銅を製錬する溶鉱炉を担当させられた。10メートル近い高さで、径4メートルくらいの円筒状の炉の頂上から鉱石、燃料、溶剤を炉に挿入し、下方の羽口(はぐち)から熱風を吹き込んで燃焼させ、鉱石をドロドロの液状にする。液状になった鉱石が炉底に溜ると炉の外に導く。

 

そこには砂で1メートル四方,高さ30センチメートルくらいの箱形のものが、段差50センチメートル毎の階段状に5つと,箱に溜った液状の鉱石を上から下に次々に誘導する砂の箱と路が作られていた。液状の鉱石が階段状の箱を上から下に流れるうちに、粗金属と非金属性の不純物(かす)を分離する。比重の重い粗金属は最上段の砂の箱(仕切り)の中に残り、比重の軽い“カス”は次々と下方の砂の箱に流れる仕組みになっていた。

 

この“ カス ”は、はじめ何千度もあるが、カスが冷めると固形になる。私たち学生は固形になるのを待って、50キログラムの重さのカスをウインチでトロッコに乗せ、500メートルくらい離れたゴミ処理場に運ぶ。私はウインチとトロッコ運搬を担当した。先ず、火傷をしないように厚い手袋をして、箱形のカスに金属製の縄をかけ、ウインチで持ち上げてトロッコに積む作業だった。初めはカスを途中で落とすこともあったが、次第に上手になり、トロッコに1度で積めるようになった。私はこの重労働を楽しんでいた。もちろん、この行程の主要部分は工員さんが行い、私たちは補助要員であった。

 

ところが、軍事工場で働きだして2ヶ月目ころから私は胃腸をこわし、下痢が止まらなくなった。診療所で薬をもらって飲んでもよくならない。その原因は食事だった。朝はパン食だったが、昼と夕食は大豆と米が半々と言うより、大豆の方が米より多い主食であった。生来、胃腸が弱い上に、この主食ですっかり胃腸をこわしてしまった。薬を飲んでも全くよくならないので、診療所の医師の診断で1ヶ月、実家に帰って療養するように言われ、実家に帰ることとなった。

 

※碓井峠の雨にぬれた新緑で心が癒された

富山から上野行きの列車に乗った。5月中旬である。軽井沢を過ぎて、碓氷峠のトンネルにさしかかった。外は雨で、新緑の葉が雨にぬれて輝いていた。トンネルを抜けると新緑、抜けると新緑が続いた。それを見ているうちに、殺伐としていた私の心が次第に癒されていった。こんなに美しい、心に潤いを与えてくれた雨にぬれた新緑は初めてであり、最後である。

動員先では広い部屋にクラス全員が雑魚寝で、プライベートの時間は皆無で、本も雑誌も自由には読めなかった。そのためか、私の心は殺伐となっていた。

 

※実家に帰る

埼玉県秩父の実家に帰ると、母が胃腸によい食事を用意してくれ、3〜4週間もすると下痢も落ち着いてきた。動員先に戻るか、家でしばらく静養するか、迷ったので指導教官の田中先生に手紙を出して相談した。先生は、“また富山に帰っても、食事は同じだから、また胃腸をこわしてしまうだろう。体第一にして、しばらく家で静養しなさい”と、暖かい返事を頂いた。しかし、下痢も止まったので、このまま何もしないのではクラスの友人にも、国家にも申し訳ないと思い、鬱々として心楽しまずという状態であった。

 

※実家近くの軍需工場で働く

そのころ、薬屋である父の店に時々買い物にくる軍需工場の工場長さんがいた。母はこの方に私がブラブラしていることを話したのであろう。ある日、母に呼ばれて、店に行くと工場長さんがいた。話は既にすんで居るらしく、工場長さんは「話はお母さんから聞きました。学校が許可してくれるなら、私の工場で働きなさい。出勤簿は毎月学校に提出しますから」という,暖かい話であった。そこで、すぐ田中先生に「学校の許可があれば、近くの軍需工場で働かせて下さるという話があるのですが、・・・・」と手紙を出した。先生の手紙では「病気中でも,国のために働こうというのは殊勝な考えだ。

教授会に諮ったところ、全員賛成なので、その工場に勤めて、毎月の出勤簿を教務課に提出しなさい」との返事であった。早速、工場長さんに電話をかけ、翌日から働かせてもらった。電車で3駅離れたところの工場に約30分かけて出勤した。旋盤を主とする工場で、鉄板に孔をあけたり、ねじに溝を切るねじ切りや、表面切削などを行なっていた。行員は私が学生なので親切に教えてくれた。

私は器用なので、旋盤の技術をすぐ覚えた。ブラブラしているのは精神衛生上良くなかったが、働きに出てから、富山で働いている同級生に対する申し訳ないという重荷が少し軽くなり、元気がでてきた。

“読むより、働け”と言う言葉があるが、働くことは精神を健全にし、壮快にすると思った。

働き出してから2ヶ月半くらいの時、“明日正午に天皇陛下の玉音放送があるから、明日正午に中庭に集合せよ”と言う通達がでた。

 

※玉音放送

1945年(昭和20年)8月14日深夜というのか、15日早朝というのか、我が家から見て、山越しに東の空が一面真っ赤に染まった。熊谷市が爆撃されたのだという情報が流れた。終戦の日の前日というか当日の早朝の爆撃である。米国も随分無慈悲なことをすると後で思った。

8月15日の秩父は雲一つない晴天であった。母が駅の近くに用事があり、母は私を駅まで送ってくれた。

その時、母の着ていた白い割烹着が太陽に照らされて、眩しかったのを覚えている。“気を付けて行っていらっしゃい。”という母と駅で別れた。午前8時ころなので暑くはなかったが、その日の太陽の輝き、雲一つない青空、母の白い割烹着、母の満ち足りているような笑顔、秩父の風景を,なぜか鮮明に覚えている。

 

工場の中庭の中央にはラジオが用意されていた。玉音放送が始まると、全員、直立不動の姿勢でラジオを聞いた。しかし、雑音がひどく,殆どわからなかった。ところどころ“堪え難たきを耐え、・・・”と断片的には聞き取れ、戦争に負けたことは分かった。放送が終ると、工場長は「今、みなさんもお聞きになったように、日本は戦争に負けました。この工場の使命も終ったので、今日をもって閉鎖致します。今後のことは、決まり次第通知しますから、各自、家で待機していてください」。

私は2ヶ月半お世話になったお礼を言って、工場長と別れた。工場長は、2ヶ月半前に会った時から「新井さん、この戦争はもうすぐ負けるから、午前中だけ働いて、午後は、あなたの為になる本を読んだり、英語や数学の勉強をして下さい。その方が、国家のためになります。」と私に何度もアドバイスをしてくらた。

 

この玉音放送を聞いて、私は、日本は負けてしまったのだ。残念だ!と思う反面、これで軍国主義は終わりになる。怒鳴り散らして、傍若無人だった学校の配属陸軍将校もいなくなる。灯下管制もなくなる。夜、明るい部屋が戻ってくる。楽しい家庭団欒も復活する。お仕着せの教科書もなくなって、自由に好きな本が読める。戦争中、軍部により閉鎖されていた秩父ホーリネス(キリスト)教会も再開される。“自由を回復した”と天に両手を突き上げて、大声で叫びたい感じであった。

 

その10日後、山形高校の同級生で陸上部のマネージャーをしているM君が東京から秩父の私の家に訪ねて来た。彼は富山の軍需工場から数日前に帰京したのだという。先ず、玉音放送を聞いた直後の富山の様子を話してくれた。「あの放送を聞いて、数人の同級生が、“日本は負けてはいない。戦争は継続すべきだと、政府に掛け合ってくる。”とすごい剣幕で出かけて行ったよ。その後の消息は知らないけれど・・。新井はあの放送を聞いてどう思った?」私は上に記したような感想を述べた。

「俺も全く同感だ。俺は戦争中から、軍国主義に規制され、抑圧された社会はだめだ。何事にも“自由”が大切だと言っていたので、教官や先輩から随分にらまれたよ。今になると俺のほうが正しいと思うけれど・・」。

M君は共産主義のように左翼思想の持ち主ではなく、文化人であった。若い頃の武者小路実篤を尊敬していた。(武者小路は後年、戦争支持者に転向する。)また、山形在住の詩人など自由人とも交流していた。M君の母親は高村光太郎の妻・千恵子と親交があり、あの有名な千恵子の折り紙で作った絵を全部持って山形に疎開していた。親子ともども根っからの文化人であった。

 

※授業再会

9月半ばに10月1日から授業を再開するとの手紙が届いた。“やったー!!山形で、また勉強ができる。”と叫んだ。“勉強が出来る”の中身の半分以上は、陸上競技ができることであった。

陸上競技部は高校の正門から200メートルくらいのところに、“陸上競技部合宿所・ふすま寮”を持っていた。これは10年ほど前に先輩達が資金を集めて、後輩のために買ってくれた合宿所である。ふすま寮の由来は山形高校の徽章の鳥海山に咲く“ふすま”からとったものである。

 

私は山形駅から、ふすま寮に直行した。陸上部キャプテンはふすま寮の寮長も兼ねることになっていた。寮に着くと、戦時中留守番をしてくれた寮母のおばさんが明るい笑顔で迎えてくれた。戦争中、学生が不在だったので、おばさん達一家が住み込んで留守を守ってくれていた。

 

私は数室ある部屋のうち4畳半の部屋を居室にしてから、気になっていたグランドに向かった。グランドの一部は耕されて芋畑になっていた。幸い一周400メートルのトラックは無傷であった。これなら、陸上部の基本であるランニングは出来るとほっと胸を撫で下ろした。畑はゆっくり整地しようと計画した。

 

すぐ、学校構内の武道館に住んでおられた田中先生を訪ねた。戦争中、住宅事情が悪く、数人の教授が学校構内の武道館や記念館に住んでおられた。坐り机に向かって勉強されていた先生は笑顔で暖かく迎えて下さった。「その後、病気はどうですか?思っていたより顔色がいいですね。安心しました。」と言われた。私は『練習はランニングから始め、フイルドの芋畑は徐々に整地します』と申し上げた。先生は「芋畑の整地は学校にもお願いしましょう」と言われ、学校と交渉して下さった。芋畑の整地は1ヶ月後に学校が行なってくれた。

 

※走る若人の姿に日本再建の力があふれている

学生は三々五々帰って来た。10日後から練習を始めた。10数人が集まった。1週間もたつと練習も軌道にのってきた。そのころ、高校を訪れた山形新聞の記者は偶然、10数人の部員が隊列を組んで走っている、躍動するようなこの光景を目撃し“明るい秋の陽を受けて、走る若人の姿に日本再建の力があふれている。”と写真入りで報じた。

 

逞し(たくまし)・若い跳躍

『明るい秋の陽を受けて、走る若人の姿に日本再建の力があふれている』と山形新聞は報じた。マイクロ・フイルムよりおこした写真で、これ以上鮮明な写真にはならないと新聞社では言っていた。先頭の向かって左の黒シャツが筆者。全員“はだし”である。

 

※バイブル・クラス

ある日、田中先生に「次の日曜日の午後から、横町キリスト教会でバイブル・クラスを開くので手伝って下さい。」と言われた。先生は北海道に居られたころクリスチャンになられた。戦争中、軍国主義教育を長く受けていた日本人は、敗戦によって、心に大きな空洞ができていた。それを埋めるためか、多くの人がキリストの教えを聞こうとして教会の礼拝に出席していた。当時、キリスト教はブームになっていた。

 

バイブル・クラスも盛況で、いつも50人から60人が押し掛けていた。先生は英語のバイブルを訳すだけでなく、キリストの言葉の深い意味を、ご自分の経験をまじえて分かり易く解説して下さった。私の役割は来会者を案内するくらいだったので、後ろの席で先生の話を熱心に聞くことが出来た。

先生にバイブル・クラスにかりだされたおかげで,私は横町教会に通うようになった。後に、小学生を対象とした日曜学校(現・教会学校あるいは子供の教会)の教師、さらに校長を押し付けられた。人材不足のためであろうが、まだ自分が勉強せねばならない高校3年(現・大学2年)の時であった。それでも毎日曜日15分から20分、聖書の話を子供達にした。田中先生が私に“手伝ってください。”といわれたのは,私を横町キリスト教会に導くためだったのかも知れない。

 

 

山形横町教会  大正7年建立。  

現在は、ここより50メートル離れた所に日本キリスト教団・山形本町教会として、昭和三十七年に新教会堂と牧師館が建てられた。横町教会跡地は現在・庄内銀行山形支店になっている。