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第39話  — 田中先生 — 【part3】

※田中先生の通訳

そのころ、30歳代の若いアメリカ軍の従軍牧師が横町キリスト教会に3度来て日曜日の礼拝説教をした。それを田中先生が通訳をされた。通訳された言葉を聞いていると、深い意味の言葉が次々と続く。

こんな若い従軍牧師でも、かくも深い説教ができるのかと驚き感心した。

そこで、従軍牧師の英語に耳をそばだてた。

全部が分かったわけではないが、その話は平面的であった。田中先生は先生の豊富な体験と人生訓、聖書の深い知識を総動員して、平坦な従軍牧師の説教を深い説教に意訳、いや精神訳をされたのであった。

 

※私の愛した静から動、動から静の山形

11月になると,山形は寒くなり、山々には雪が降ってくる。グランドにも雪が積もり寒さが厳しくなる。そこで、11月から3月まで陸上部の練習は中止した。雪によって1年が“静”の期間と“動”の期間に完全に2分される山形の気候が私は好きだった。関東では、冬でも,寒さを少し我慢すれば、運動は何でも出来た。

しかし、雪は私たちの生活を完全に2分してくれた。

“静”は,運動で少し荒れた私たちの心を鎮め、心を平静に導いてくれた。冬は室内の生活が多くなり、読書をする時間が多くなる。

また、思索にふけることも多くなる。山形在住の文化人や詩人との交流も多くなる。静から動、動から静と1年の生活を2分する山形の冬と夏を私はこよなく愛した。

 

※朗報:インターハイの再開

昭和21年(1946)春休みが終わり、高校3年になった私は、4月初めに山形に帰り、また、陸上部の練習を再開した。新入生が4、5人入部してくれた。その1人は,陸軍士官学校から3年生に編入した学生で、中学時代、円板と砲丸を専門にしていた。その当時、山高には円板投げ、砲丸投げの専門部員がいなかったので、これは嬉しいことであった。

10数人で練習していると、田中先生が手紙を持って,笑顔で近づいて来られた。部員は先生を取り囲んだ。先生は「おめでとう。インターハイが再開されることになりました」と言われた。部員たちは“ウオー”と喜びの雄叫びをあげた。待ちに待った朗報である。この日のために毎日過酷な練習をしていたと言っても過言ではない。

手紙によると、“10月に京都大学のグランドで、復活第1回全国インターハイ(全国高等学校陸上競技大会)を開く。それより前,9月に全国を4つのブロックに分けて予選会を行ない、その勝者が全国大会に出場できる。

1)北海道・東北地区から1校、2)関東甲信越地区から2校、3)中部・関西地区から2校、4)中国・四国・九州地区から1校、計6校である。

私たちの練習にも熱をおびてきた。

 

※北海道・東北地区予選

1947年9月中旬、東北大学のグランドで、地区予選会が開かれた。北海道大予科と仙台の第2高等学校はアスリート不足で棄権したので、山形高校と弘前高校の対校戦になった。弘前のキャプテンは埼玉県の中学陸上競技大会の100メートル競技で3年間の私のライバルであった。しかし、彼は体重が増加して、砲丸投げ、円板投げに転向していた。

私は100mメートル走、400メートル走、1600メートルリレー、走り幅跳びに出場した。走り幅跳び以外、3つの競争は1位であった。このほか、1500メートル走、砲丸投げ、円板投げ,ハイジャンプがあった。

全部の得点を総合して、大きく点数を離して山形高校が勝利して、京都大会の出場権を獲得した。その発表で部員達は、互いに肩を叩き、肩を組んで喜びあった。

夕闇迫る東北大学グランドで、田中先生を中心として、先輩と高揚した部員は円陣を組んで、山形高校・陸上競技部・部歌“ああ、北海に波荒れて・・”を京都に届けとばかり、高吟した。

 

<北海道・東北インターハイ予選>

100メートル競争決勝  1着は筆者。もっと奇麗なホームで走っていたと自分では思うが、なんと無様なホームか? 

それでも2位3位を2〜3メートル離している。

 

※烈しい胃痙攣

全国大会出場が決定すると、練習量は,今までの1.5倍くらいになった。全員、熱が入ってきた。私とマネージャーには、遠征のための用事が練習のほかに加わった。京都の宿の申し込み、京都往復の切符の手配、遠征費の調達、1人3升の米の確保などである。京都の宿は、京都在住の先輩にお願いし、京都大学病院前の修学旅行用の旅館が確保できた。米は、そのころ配給制だったので、担いで各自持って行かねばならず、その調達も苦労した。

京都戦の10日くらい前のある日の午後、急に胃の付近が烈しく痛んだ。痛みがさらに烈しくなったので、近くの医師に往診してもらった。“胃痙攣だから、モルヒネを注射しましょう。すぐよくなりますよ”と注射をしてくれた。痛みは暫くおさまったが、2時間もするとモルヒネの効果がなくなり、また烈しい胃痛が起こってきた。

誰かが知らせたのだろう。横町教会の私の友人の姉(N)さんが駆けつけてきた。Nさんは指圧を勉強しているという65kgくらいの体格の婦人だった。“新井さん、うつ伏せになりなさい。

胃にゆく神経を指圧します。かなり痛いけれど、我慢して下さい。”と私をうつ伏せに寝かせ、その上に馬乗りになり背中の脊柱の両側に親指をあて、全体重をかけて指圧した。

飛び上がらんばかりの痛さだったが、押さえつけられているので、飛び上ることはできれない。3分続けて、1、2分休み、また3分間の指圧である。押されている間は、息ができない感じだったが、30分もすると胃痛は少しづつ軽くなってきた。

1時間もすると胃痛をほとんど感じなくなった。

Kさんは“練習のし過ぎでしょう。三日間は練習を休み、おかゆを食べて下さい。また痛んだら、直ぐ来ますから、呼んで下さい。“と言って帰られた。

それから、2時間経っても、5時間経っても、モルヒネのように効果がなくなることはなく、胃痛は再発しなかった。初めてうけた指圧だが、その効果は驚くほどだった。

3日間おかゆを食べ4日目に練習を再開したが、当然自分らしい走りはできない。大会まで、あと1週間しかないと私は少し焦ったが,我慢あるのみであった。

 

※いざ,出陣

京都へ出発の日となった。山形駅前の広場には山形高等学校と書かれた3メートルくらいの数本のノボリ旗を立て、大太鼓を叩いて200〜300人くらいの応援団と山高生が集まり、激励会を行なってくれた。先ず、全員で陸上競技部・部歌“嗚呼、北海に波荒れて・・・”を高吟し、次いで応援団長の激励の言葉、続いて主将である私は京都戦への決意を述べた。

私は自分の体の状態など全く忘れ,気分が高揚していた。

列車に乗って、窓を開けると、大勢の学生が次々と“新井!100メートルだけは優勝して来い”と激励してくれた。否が応でも病後のことなど忘れ、戦意は高まっていった。

 

※復活、第1回全国高等学校陸上競技大会(インターハイ)

1947年秋、京都大学のグランドに,地区予選を勝ち抜いた6校の選手全員が,各校の部旗を先頭に集合した。大会委員長の挨拶から始まった。“あの委員長は山高の先輩だよ”という小さな声が聞こえてきた。ついで、審判長の注意があり、大会の幕は切って落とされた。

各校が所定の位置に陣取った。私は100メートル走と400メートル走の予選に出場し、決勝出場の権利をえた。

しかし、体調がもう一つなので、田中先生と相談し400メートル走の決勝は棄権し、100メートル走と400メートルリレー、最後に行なわれる1600メートルリレーに備えた。

 

次々と競技の結果の放送があった。山高の選手の成績も入ってきた。走り幅跳び3位、砲丸投げ6位、円盤投げ2位と6位、残念だったのは1500メートル走であった。山高のK君はラストスパートで2位から1位になったと思われたが同着、同タイムであった。判定の結果2位となった。私の100m走の決勝は、スタートは順調で80mくらいまで、先頭グループを走っていた。

しかし、最も得意なラストスパートが普段のように伸びず、先頭に1メートルくらい離されて、5人がほぼ一緒になだれこんだ。判定の結果私は3位となった。

400メートルリレーは4位、最終の1600メートルリレーでは第4走者(アンカー)をつとめた。5位でバトンを引き継いで、100メートルくらいのうちに2人抜いて3位になった。

しかし、ゴール寸前で1人に抜かれ、4位に甘んじた。

 

最後に出場者全員が集合して、表彰式が行なわれた。甲南高校が優勝、成蹊、八高、一高、山形高校は5位,山口6位の順であった。

このころは、終戦後間もなかったので優勝旗やメタルの授与は無かった。

 

復活第1回全国高等学校陸上競技大会(インターハイ)

1周500メートル(変則)の京都大学グランド。京都の山々を背景に。

前列中央:田中菊雄陸上競技部部長,その右:主将をしていた筆者。