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第40話  — 田中先生 — 【part4】

※インターハイ当夜の打ち上げ式

田中先生、部員、先輩が集まって、旅館で打ち上げ式が行われた。先ず、田中先生の挨拶。次いで、私は次のような挨拶をした。

1)今日の復活第1回インターハイでは、各人が自分の持てる力を出し切って、善戦・健闘したことを讃えた。

2)全国にはレベルの高いアスリートがたくさんいることを、今日は肌で感じた。1、2年生はこのことを来年に生かして、日々の練習に励み,明年は今年より一段高い成績を取ってほしい。

3)主将であったこの2年間、この不肖の私に協力し、支えてくれたことを感謝した。つぎに先輩の乾杯で宴会は始まった。

 

※全身の烈しい筋肉痛

そのころから、私は体に違和感を感じていた。座っていることができず、立ってみたが違和感はとれない。そのうち、身体中の筋肉が痛くなってきた。宿の女中さんに頼んで,別の部屋に床を敷いてもらった。床に横になっても、全身の筋肉痛は増すばかりだ。上を向いても、横を向いても、うつ伏せになっても痛みは取れない。あまりの痛さに、ウーウー唸りながら、七転八倒していた。

そこに、1人の先輩が見舞いに来た。私の痛みが烈しいのを見て、4、5人の先輩を呼んで来た。“これはひどい!!マッサージをすると良くなるかも知れない。”と,手分けしてマッサージを始めてくれた。陸上競技部員は、練習前と練習後にお互いにマッサージをする。そのため、マッサージは上手である。

 

左右の上半身と左右の下半身を分担して4人の先輩がマッサージをしてくれた。マッサージをしてもらっているところは、痛みが軽減するが、その他のところの痛みは続いていた。先輩は“この痛みは一晩中続くかも知れないから、時間割を作って交代しながら、徹夜でマッサージをしてやろう”ということになり、計画表を作り、先輩達は分担して徹夜でマッサージをしてくれた。

 

※ごめんね!新井君、ごめんね!

空が明るくなったころ、マッサージをしてもらいながら、うとうと眠った。その時、“ごめんね!新井君、ごめんね!”と言って、自分の頬を私の頬にすりつける人がいた。目を開けて見ると田中先生だった。“田中先生は山形に帰られた筈なのに・・”と思いながら、また、うとうとと眠ってしまった。

 

後で聞いた話だが、3日間学校を空けていた田中先生は、種々の要件が溜っており、打ち上げ式が終ると、急いで京都駅から山形行きの列車に乗られた。そのうち、先生は“新井君はどうして居るだろう。山形高校のために、死力を尽くして奮闘した新井君を残して来てしまった。申し訳ないことをした”と後悔と慚愧(ザンキ)の念に耐えられなくなった。そこで、京都から2時間くらい行って止まった駅で降り、3、4時間待って京都行きの夜行列車に乗り換え、明け方、京都に到着したのだという。

 

午前10時くらいになると,痛みは随分良くなった。先輩たちは“新井、痛みが軽くなってよかったね。これからも気をつけなさい。”と,三々五々帰って行った。私はまだ起き上がれる元気はなく、寝たままでお礼を言った。徹夜でマッサージをして下さった先輩に感謝しても感謝し過ぎることはなかった。

旅館には田中先生と私だけが残った。

 

※京都大学病院で診察をうける

3日目にようやく歩くことが出来るようになり、田中先生に連れられて、旅館の真ん前にある京都大学付属病院で診察してもらった。丁度、インターハイの大会委員長が山高の先輩で、病院の内科医だったので、その方に診て頂いた。委員長をされるほどの方だから、内科の教授だったのかも知れない。胸部のレントゲン写真,血液、尿の検査の後、先輩の診察を受けた。全てに異常所見はなかった。先輩は“胃痙攣の後、余り栄養もとらない状態で、無理をして走ったためでしょう。

例えて言えば、潤滑油の切れた状態で、ピストンをフル回転したので、器械が悲鳴をあげたのと同じです。あと2、3日、京都で静養し、実家で1週間から10日静養すればよくなるでしょう。”とアドバイスをして下さった。最後にその医師は“私は委員長席から、君の走りを見ていたが、1週間前に胃痙攣を患った人とは思えない立派な走りだった。”と誉めて下さった。

 

※人生でこんなにのんびりしたことはない

田中先生は寸暇を惜しんで勉強なさる方だった。山形では道を歩いている時も、本を目から10センチメートルくらい離して読みながら歩いておられるのを、時々見かけた。先生は生まれつき強度の近視だったので、書物を目から10センチメートルくらい離して讀でおられた。

私は3〜4ヶ月に1度、先生のご自宅にお伺いした。競技部の内部の話が主で、時には私の個人的な相談にのって頂いた。その時、先生の謦咳に接すると、いつも先生から明るさと力を与えられた。先生は大きな机の前に座布団を敷いて坐っていた。

 

その周囲には、4〜50センチメートルの高さに積んだ種々な本の山が10くらい、所狭しと置かれていた。先生は「私は整理整頓が苦手なので、雑然と本を置いています。そのため、必要な本を見つけるのが大変ですが、見つけた時の喜びは、また格別です」と温顔をほころばせて微笑された。先生の机の上には方眼紙に万年筆で書いた原稿がいつも、うずたかく積まれていた。

 

こんなに寸暇を惜しんで勉強される先生に、私の病気のために、京都で無駄な時間を過ごされるのを、私は大変申し訳なく思い、何度か先生に“私は、もう大丈夫ですから、山形にお帰り下さい。”と申し上げた。先生は“山形高校のために、死力を尽くして奮闘し、病気になった君を1人残して帰るわけにはいかない。教授会には連絡してあるから心配しなくてもよい”といつも同じ返事であった。

そして、先生は「私の人生の中でこんなにゆっくり、のんびりしたのは初めてです。これも新井君のお陰です。ありがとう」と言われた。私は答えに窮した。

 

※“馳走”という意味が初めて分かりました

診察の2日後に,京都を発ち、東京に出て郷里の埼玉県秩父に帰った。先生は心配だからと、同道して下さった。家では父と母に迎えられた。父と母は、先生に感謝とお礼を述べていた。母は早速、夕食の準備を始めた。母は人を、おもてなしするのが好きで、“人には厚く、自分には薄く”をモットーとしていた。

自分は粗食でも、人にはご馳走をふるまいたいという人だった。夕食後、お泊まり頂いた。先生は翌早朝、山形に帰られた。2、3日後、先生からお礼の手紙を頂いた。そのなかに「お母さんが,駆け足で食材を整え、夕食を用意して下さるのを見て、初めて“馳走”の意味が分かりました。」と書かれていた。

家で1週間静養をして後私は山形に帰った。田中先生に挨拶に行くと、先生は大変喜んで下さった。

 

※納会

11月の下旬に、1年の締めくくりの納会を開いた。田中先生はじめ約二十人の部員が集まった。その席で私は2年間続けたキャプテンを2年生(次期3年生)に譲った。キャプテンは通常1年間だが、戦時中の変則規則で私たちの1年上級生は2年で卒業した。そのため、私は2年間キャプテンを続けた。この間、大過なく、この重責を果たすことが出来、肩の荷を降ろした感じだった。

それほど頑健ではない私が2年間、主将としての重責を果たすことが出来たのは、田中先生の慈父のような愛情、部員の協力、先輩たちの献身的な奉仕、何くれと面倒をみてくれた寮のおばさん、指圧のKさん、それに私の父母の祈りのおかげであると、私は心から感謝した。納会での私の挨拶は、部員達に、この感謝の気持ちを伝え、明年のインターハイでの健闘を祈ると結んだ。

 

※卒業

卒業の時、“思い出帳”に先生にも書いて頂いた。トーマス・アケンビスの「基督に倣いて」の第38章より引用した言葉を1頁書かれ、最後「親愛なる、新井達太君。将来の大成を祈る。田中菊雄」と書いて下さった。

そして、私は長く住み慣れた山形から故郷に帰った。

  

1961年に私は結婚式を東京で挙げた。先生をお招きすると先生は喜んでご多忙の中、 山形から東京に来て下さった。そして、私が山形高校・陸上部の主将の重責を果たし、京都のインターハイでの健闘を称える暖かい祝辞を述べて下さった。

先生は、晩年、神奈川大学の教授を勤められ、1975年、82歳の天寿を全うされた。私が先生のご逝去を知ったのは、迂闊(うかつ)にも1年くらい後で、葬儀に参列出来なかった。あんなに可愛がって頂いたのに、今でも慙愧(ざんき)に堪えない。“先生、お許し下さい。”     合掌

 

<文献>

1)田中菊雄 渡部昇一特別解説 知的人生に贈る  三笠書房

2)田中菊雄 私の英語遍歴  講談社学術文庫

3)田中菊雄 現代読書法  星書房

4)田中菊雄 私の人生探求  三笠書房