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第43話  — 東京GのM社長との出会い。M社長の私的勉強会“K,T会”に参加して — 【part3】

※M社長とゴルフ

私はM社長にときどきゴルフに誘われた。千葉のOカントリー・クラブ(CCと略す)の支配人は東京Gからの派遣だったので、東京Gに関連したゴルフ場のようであった。最初に行った時のことである。ゴルフバッグを所定の場所に降ろし、着替えをしてからバッグの中に入れておいたゴルフシュウズを取りに行った。

しかし、シューズが無い。周りを探してもない。ロッカー室に戻って探したが無い。仕方なくゴルフ場の売店で2、3万円のシューズを賈って、それを履いてM社長たちとスタートした。

3番テイグランドに到達した時である。遠くの方からキャディさんが何か大声で叫びながら両手を万歳のように高く挙げて何かを持って駆け足で近づいて来る。近づくにつれてシューズを持っていることが分かった。

息急(いきせき)き切って到着した彼女は「すみません。シューズを磨いて置いたのですが、いつまでもこのシューズが残っているのに気がつき、お客さんのシューズだと分かったので持ってきました。」とあやまった。

このゴルフ場では、シューズを磨いてくれることを私は知らなかった。今更、売店に靴を返す訳には行かないので、彼女にロッカー番号を教えて磨いた靴をロッカーの前に置いてもらうように頼んだ。

 

“行きはよい,よい、帰りは怖い”という歌があるが、この時は“行きは一足、帰りは二足”であった。

 

次に誘われたのは、茅ヶ崎にあるスリー・ハンドレッドCCであった。会員は政財界の著名人300名しか入れない名門クラブであった。ここで、教え魔といわれていたM社長の教えを受けた。社長から指導を受けても、決して上達はしないという陰口を私は知っていた。しかし、教えてくれるのなら、真剣に教えてもらおうと私は思った。社長が教えてくれるようにスイングすると、真っすぐにボールは飛んで、いつもより距離も出た。「先生はなかなかセンスがある。」と誉められた。この時はスコアーも良かった。

それから、2、3ヶ月後に,友人と他のゴルフ場でプレーした。社長に教えられたようにスイングしたが、まったく元に戻ってしまい、スコアーも以前通りだった。

 

O君は高校生になった。

このころ診察すると雑音はなくなっていた。心エコーでも心室中隔欠損孔は認められなかった。O君と母親に「欠損孔は自然に閉鎖したと思います。もう診察には来る必要はありません。」と言うと母親は「心配ですから1年に1度診察をお願いします。」と言った。その後も1年に1度診察に来院した。

  

※札幌でのセミナー

その後のある夏、札幌の経済界の主催、札幌G(東京Gの関連会社)の後援で夏期セミナーが開かれ、前述の4人の学者が講師であった。私はオブザーバーのような形で参加した。そのため、講演などの義務はない。そこで、東京Gの専務たちとゴルフを楽しんだ。ところが、その翌年から新井さんも1時間講演をして下さいといわれ、「体と心の健康法」という題で講演した。

このため4人の学者の講演は全部聞いた。特に, K大学のK教授の講演は、講演時間が短か過ぎるという感じで、こんなに早口で喋れるかと思うほどの立て板に水の講演であった。各講師とも世界と日本の経済のトピックスの講演で、毎回200人以上の聴衆が集まった。このセミナーは4年間続いた。私はここでも専門外の勉強をさせてもらった。

 

ある年のセミナーの翌日の朝食の時である。K氏は「昨夜、風邪で熱が出たので、ホテルから医者を頼んでもらったら、それがひどい医者だった。まだ新井さんに診てもらった方がよかったよ。」と言うので、私は「私が診察したら、今はもう、死んでいましたよ。」と言ったので全員爆笑となった。4人の学者とは、こんな軽口がたたけるほど親しくなっていた。

  

※O君、結婚

O君は日本のある有名企業に就職した。その2、3年後のある日、美しい女性を連れて私の外来に来院した。

「こちらは私のフィアンセのQさんです。結婚前にお互い身の潔白を示すために検査をして下さい。」

「身の潔白とはエーズや梅毒の検査もするという意味ですか?」

「そうです。」と2人は頭を下げた。

外来で出来るレントゲン、心電図、血液検査を行なった。検査結果は全く異常なかった。

それから数ヶ月後に結婚披露宴の招待状が届いた。

 

当日、Tホテルの宴会場に行くと、テレビで見たことある政財界の大物が多数参列していた。300人以上の大宴会であった。私は東京Gの副社長、専務、常務と同席した。もう数回会っている気のおけない人たちであった。乾杯が終ると、料理が運ばれた。

皆さんナイフ、ホークを持って食べはじめた。ここでひょっと気がついたのは、タキシードや礼服の袖からでるカフスボタンであった。ある人はダイアモンド、ある人はエメラルド、ある人はオパールなど色とりどりであった。

私はホークを動かして食べながら、きっと、「俺の方が彼のカフスボッタンより高価だ。あるいは、彼には負けた。」などと思っているのではないかと一人微笑んだ。私のカフスボタンはというと、Yシャツについている貝の平べったいボタンだから他の人とは比較にならない代物である。

この後も私はたくさんの結婚披露宴に招待されたが、カフスボタンに気がついたのはこの宴会だけである。

終宴後、屏風の前に立っている新郎新婦とM社長ご夫妻に挨拶した。

夫人は「長い間お世話になりましたが、やっとOも結婚することが出来ました。」と感謝していただいた。

私は「よかったですね。おめでとうございます。」と挨拶したが、欠損孔は自然に閉鎖したのだから、私は何もしてあげてはいない。

まさに“ 神、これを癒し給う ”である。

しかし、私は感謝していただいたことが大変嬉しかった。

 

その1年後のO君の年賀状は、可愛い赤ちゃんの写真であった。その写真を見ながら私の心に浮かんだのはM社長と夫人の嬉しそうな笑顔であった。