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第46話  —Viking Olov Bjoerk教授— 【part3】

 

※カロリンスカ大学の見学と海辺散策

2日目はProf.Bjoerkの教室のG講師が迎えに来てカロリンスカ病院を見学した。連休中だったので、手術室、レントゲン検査室、動物実験室などを見学した。シーメンスのレントゲン機械などはみな高級な機械であった。

G講師に従って行くと海岸にでた。そこには2〜300人の人人が、日光浴を楽しんでいた。G講師の話では、「スエーデンの冬の日照時間は極端に少ないので、夏が来るのが待ちどうしく、夏に1年分の太陽の光を吸収しようとしています。全身の出せるところの皮膚は全て出して太陽の光を浴びています。見てご覧なさい。老若男女みな上半身は裸です。」

私たちは、かなり遠くを歩いていたが、みな上半身はだかで、各自、仰向けになったり、寝そべったりして、出来るだけ広い範囲に太陽の光を浴びようとしていた。こんなに多勢なのに、日よけのパラソルは1本もなかった。みんな薄いピンクで白い肌をしており、日本人のように、日焼けして茶褐色の人はいなかった。

 

※ サウナと室内プール

30分ほど歩いたので、少し汗をかきながらProf.Bjoerkの家に到着した。G講師は「汗をかきましたね。サウナにはいりましょう。」と案内してくれた。G講師は我が家のようにProf.Bjoerkの家の中を知っていた。

サウナは座席が2段になっていて、数人は入れる大きさだった。余り熱くなく、私には丁度いい温度だった。東京でも、私は3〜4度サウナに入ったことがある。伊勢丹デパートのすぐ横に伊勢丹会館があり、そこにサウナがあった。丁度適温だと思って入っている時に、炉に水をかける人がいる。そうすると、室内がたまらないほど熱くなる。私はいつも温度が高くなると、外に飛び出していた。

2〜30分入っていると、全身ジワッと汗がでて来た。G講師は「プールに入りましょう」と案内してくれた。

長さ15、横6〜7メートルの立派なプールだった。日本のドクターで、こんなに立派なプールを持っている人は、いませんよ」と話すと、G講師は「Prof.Bjoerkは金持ちですから」と言っていた。プールで体温が程よく下がったので、またサウナに入った。3度くらい繰り返したが、大変気分が爽快になった。プールからは海まで見渡すことができる広い敷地だった。

 

※ 4ベッドつきのヨット

夕食が終ってからも外は明るかった。夫人は「若し、お疲れでなければ、ヨットを見に行きませんか」と誘ってくれた。私は少し疲れていたので遠慮した。

夫人の話によると「私たちは家族全員で毎年夏休みにローマまでセーリングします。主人がヨットを操ってヨーロッパの港、港に寄港し、その港で美味しい夕食を楽しみます。10日くらいかけてローマに行き、私たちは2、3日ホテルに泊まります。ヨットは回送専門の会社に頼んで、数日かけてスエーデンまで運んで来てもらいます。私たちはローマでゆっくり楽しんでから飛行機で帰って来ます。」

話を聞いていて大変羨ましくなった。本当のバカンスとは、こういうことを言うのだと思った。それにしても、今,残念に思うのは、このヨットを見なかったことである。私は日本で4ベッドつきのヨットを見たことがない。せいぜいベッドなしの数人乗りヨットが大きい方である。

 

※ 第3日目は海賊船見学

船を見に行きましょうと言われたので、てっきり海賊船見学と思っていたが、スエーデンの17世紀の戦艦ヴァーサ号の見学であった。

ヴァーサ号はスエーデンがバルト海沿岸を支配した時代を象徴する戦艦である。ヴァーサ号はスエーデンのグスタフ2世アドルフ王の命により、1626年建造が開始された。高さ52メートル、長さ69メートル、重量1200トン、10枚の帆を掲げることの出来る3本のマストを備えている。また、64の大砲が装備されている。

1628年処女航海に出航した。砲門が開き全ての大砲から礼砲が発射された。船はゆっくりと出航した。しかし、強風にあおられ傾き、砲門が開いていたため水が入り沈没してしまった。

ヴァーサ号は333年後に海底から引き上げられ、人々の前に再び姿を現した。壊れた船体とその部品(約14,000点)はジグゾウパズルの如く、船体の元の位置に戻された。船体の98%は原型のまま残され、何百もの彫刻が元の位置に施されている。

ヴァーサ号は世界で最も美しく保存されている17世紀の軍艦で、他に例を見ないユニークな芸術船であると言う。

艦内には立派なレストランがあり、そこで昼食をとった。

 

※ 午後はお土産店に連れて行ってもらった。

ガラス製の花瓶はスエーデンの名物で、重い花瓶ほど珍重されるとのことだったので、小瓶のビールくらいの大きさで、全体に分厚つくて重い、ブルーを基調とする重い花瓶を2つ買った。今でも大切に保存しているが、現在のスエーデンの花瓶のカタログを見ると、薄いガラスで薄い色の花瓶が流行しているようである。

ダーラナホース:木こりが仕事を終って後、遊び半分に作った木彫りの馬が始まりだという、木彫りの馬を買った。彫刻のように彫り物は無く、シンプルな木彫り馬で、赤、ブルー、黄色、白、黒などで全体が塗られ、馬のたてがみと馬のクビから鞍にかけて赤、白、ブルーで装飾されている。高さ約10cmの赤とブルーの馬3頭ずつ買った。同じ色の馬を3頭ずつ左右に並べると面白い置物になった。

翌日、Prof.Bjoerkはまだ母堂の家から帰宅していなかったが、3泊5日大変お世話になったBjoerk家を後にし、次の目的地ローマに向かった。

 

※ Prof.Bjoerk二度目の来日

1968年ころ彼は夫人とともに再来日した。そのころ彼は心室中隔欠損症(VSD)の手術に対し新らしい手術法を開発した。普通、VSDは右心室を切開して到達するが、彼は右心室の筋肉を切開することによって、右心室の博出力が弱まることを見出した。そこで、彼は右心室を傷つけないために、“右心房を切開し、三尖弁を経由してVSDに到達する方法を開発した。その手術法と手術結果をアメリカの専門雑誌JTCSに発表した。

彼の来日は、その論文が発表された頃であった。そこで、榊原先生はVSDの患者さんを用意しておいて彼に手術法を教えてもらおうと言うことになった。榊原先生が術者、彼が前立ちで手術は進行した。右心房を切開し、三尖弁をかきわけるようにしてVSDに到達する予定であった。

外から見学した私には榊原先生の頭が邪魔になって心臓内の様子は全く分からなかった。彼は鉤で三尖弁を除けてVSDを榊原先生に見せようとしているが、なかなかうまく行かない。

時間がかなり立ったので、榊原先生は彼に交代を頼み、彼が術者となって、手術を再開した。それから手術は順調に進み、VSDは閉鎖された。術後も安定していた。

 

※ Prof.Bjoerk夫妻を歌舞伎に招待

その翌日夫妻を歌舞伎に招待した。あらかじめ、歌舞伎を見たいと手紙をもらっていたので、切符を用意した。その演目の1つが「娘道成寺」であった。その演目を彼に知らせた。彼らはその演目をあの分厚い英語の案内書で調べてきていた。そのころはまだ、イアホーンによる英語の解説は無かったと思う。

この「娘道成寺」は、紀州道成寺に伝わる安珍・清姫の伝説をもとに作られたという。清姫という美しい娘が、熊野詣の若い僧・安珍に恋をし、強引に夫婦になる約束をするが、安珍は修行中の身なので、その約束を破ってしまう。怒った清姫は、蛇の姿になり、道成寺の鐘に身を隠していた安珍を、嫉妬の炎で鐘ごと焼き殺し、自身も息絶える。

舞台は変わって、満開の桜の道成寺。鐘の再興供養がまさに始まろうとしている。そこに美しい白拍子花子(しろびょうし はなこ)が都からやって来て、是非拝ませて欲しいと若い僧たちに頼み込む。しかし、寺は女人禁制なので断るが、舞を舞うからと強引に頼み続ける。僧侶たちも花子の美しさに負けて、承諾する。

花子は金の烏帽子をつけて静かに舞いはじめる。やがて烏帽子をとると、がらりと風情を変えて、女心のさまざまの舞を舞う。手踊り、鞠歌、花笠踊り、さらに羯鼓(かつこ)鈴太鼓を手にしたテンポの速い踊りを舞う。女の一生を踊りで表したというこの踊りは,大変見どころのある踊りであった。

と、突然、花子の形相が変わる。鐘の中に飛び込むと吊ってある鐘が落ちる。花子と見えたのは、実は安珍を鐘ごと焼き殺した清姫の霊であった。鐘を引き上げると女は蛇体になっていた。大勢の僧侶の供養によりその霊が成仏するという物語であった。

物語も分かり易く、劇のテンポも早く、女形の踊りもきれい、蛇体になった花子が2メートル以上もある鐘に登って見得を切る所作など、夫妻は大満足、大感激で大きな拍手を送っていた。

つぎの演目は世話物で、しばらく見たが彼らの要望で歌舞伎座を後にした。